最近読んだ『思考の整理学』という本がある。
その4章【整理】を引用
こどものときから、忘れてはいけない、忘れてはいけない、と教えられ、忘れたと言っては叱られてきた。そのせいもあって、忘れることに恐怖心をいだき続けている。悪いときめてしまう。
学校が忘れるな、よく覚えろ、と命じるのは、それなりの理由がある。教室は知識を与える。知識を増やすのを目標とする。せっかく与えたものを片端から、捨ててしまっては困る。覚えているかどうか、ときどき試験をして調べる。覚えていなければ減点して警告する。点はいいほうがいいに決まってるから、みんな知らず知らずのうちに、忘れるのをこわがるようになる。
教育課程が高くなればなる程、そして、頭がいいと言われれば、言われるほど、知識をたくさん持っている。つまり、忘れないでいるものが多い。頭の優秀さは、記憶力の優秀さとしばしば同じ意味を持っている。それで、生き字引きというような人間ができる。
ここで、われわれの頭を、どう考えるかが、問題である。
これまでの教育では、人間の頭脳を、倉庫のようなものだと見てきた。知識をどんどん蓄積する。倉庫は大きければ大きいほどよろしい。中にたくさんのものが詰まっていればいるほど結構だとなる。
せっかく蓄積しようとしている一方から、どんどんものがなくなって行ったりしてはことだから、忘れるな、が合言葉になる。ときどき倉庫検査をして、なくなっていないかどうかをチェックする。それがテストである。
倉庫としての頭にとっては、忘却は敵である。博識は学問のある証拠であった。ところが、こういう人間頭脳にとっておそるべき敵があらわれた。コンピュータである。これが倉庫としてはすばらしい機能をもっている。いったん入れたものは決して失わない。必要なときには、さっと、引き出すことができる。整理も完全である。
コンピュータの出現、普及にともなって、人間の頭をこしらえていたのでは、本物のコンピューターにかなうわけがない。
そこでようやく創造的な人間ということが問題になってきた。コンピューターができないことをしなくては、というのである。
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【ものにする】
読書の捉え方が自分自身の中で変わってきた。
今までは、知識を得るために読書をしていたけど、ある意味自分の思考の確認をするために読書を活用するようになった。
日々、たくさんの物事を考え、企画し、運営する。子供たちや保護者の方々、他チームや違う分野の指導者などと向き合う中での考え方を認識している。
また、読書の仕方も同時に変化した。
1回目は、なんとなく。気になるところをチェックする。
2回目は、速読的なかんじでばっと読む。
3回目は、1回目と2回目で気になったところを思考しながら読む。
この3回の法則が自分の読書をすることでしっくりくる。新しい『知識』ではなく『知恵』を授けてくれるやり方かなときづいた。